「ヒグマは人に遭遇しないよう注意を払いながら行動しています。人がいることを知らしめればクマのほうから離れてゆくんです」ヒグマによる被害を報道などによって知った人々がヒグマを恐れるように、ヒグマにとっても人間は恐ろしい存在なのだろう。そのため人の気配を察知するとヒグマは危険を回避しようと離れてゆくというわけだ。たとえば、ヒグマが人に気づいて別の場所に移動する際、ゆっくり離れてゆく場合と急いで走り去る場合とがある。前者の場合は人のほうがヒグマの存在に気づかないこともあるが、後者は派手な動きのため逃げる姿を目視せずとも大きな音にビックリさせられる。
ヒグマには会いたくない
この記事は月刊『つり人』2021年10月号に掲載したものを再編集しています
写真と文◎浦 壮一郎
目次
2021年は1962年以降死傷者数最多
北海道内におけるヒグマによる死傷者数は2021年7月現在、確認中も含め9人に上り、被害者数は記録が残る1962年以降最多となる見通しだという。
被害状況は以下のとおり。年4月10日、厚岸町では夫婦で山菜採りに出掛けた男性がヒグマに襲われ死亡。6月にも同じく厚岸町で1人負傷している。4月27日には富良野市で1人、6月18日には札幌市で4人が負傷。7月2日には道南の福1島町でヒグマに襲われたと見られる遺体が発見されており、さらに釣り人に馴染みの深い渚滑川が流れる滝上町でも7月12 日、道外在住の60代女性の遺体が発見され、ヒグマに襲われた可能性が高いと見られている。8月7日には道東地方の津別町で農作業中の住民がヒグマに襲われケガを負った
こうした被害が繰り返されるなか、最も衝撃的だったのは6月の札幌市におけるヒグマ出没だろう。札幌市東区の住宅街で4人が重軽傷を負った事例は道内のみならず全国的に報道され、道内最大都市の市街地での出来事として衝撃をもたらした。
北海道としてのヒグマ対策の歴史を振り返ってみると、1989年がひとつの転機になっていることが分かる。同年、道はヒグマが減少したことを理由に春期のヒグマ駆除を全面的に廃止するとともに、以降、被害の予防策と保護を兼ねた対策として多額の調査費を計上してきた。
春グマ駆除を廃止したといっても捕殺数が減っているわけではない。北海道における年間捕殺頭数は600〜900頭であり、近年はむしろ捕殺数が増える傾向にあるという。それでもヒグマ生息数は増加傾向だとされ、道によると春グマ駆除廃止から約1.8倍にまで増加しているという。
本当に個体数が増えているのか、その点もはっきりしない。道が公表している2012年度の生息数は1万600頭だが、その誤差はなんと±6700頭。つまり最小頭数は1万600頭ー6700頭=3900頭。最大頭数は1 万6 0 0 頭+6700頭=1万7300頭となる。最小と最大の誤差が1万3400頭ともなれば、信憑性のある数値だとは到底いえない。
結局のところ道内におけるヒグマの生息数は『分からない』ということだろう。
であれば1.8倍という数値も信用に値しないのだ。
生息数の把握はともかくとして、重要なことは被害を減らすことである。共存共生を名目とした調査研究は32年間ものあいだ継続されてきたものの、現在の被害状況を見るに対策という点では充分な効果を発揮しているとは言い難い。費用対効果という意味合いでも大いなる疑問が生じるのだ。
行政の施策が失敗続きであるなら、今後のヒグマ対策や個体数保護(維持)について行政との関わりが深い研究者に話を聞いても無意味だろう。そこで行政と一線を画し、かつ充分な実績を持つ研究者にコンタクトを取る必要があると考えた。
そのひとりが北海道野生動物研究所の門崎允昭さんである。同氏は50年以上ものあいだヒグマの研究に携わってきており、被害が報告された際に現地へおもむいての検証はもちろん、平時もヒグマの生態を単独で調査してきた。
門崎さんが師と仰ぐのは応用動物学の権威であり南極地域観測隊の樺太犬飼育でも知られる犬飼哲夫・北海道大学名誉教授(1897ー1989)。門崎さんは犬飼哲夫氏の最後の弟子にあたるという。その犬飼氏がヒグマ関連の著書を執筆する際、共著者として選んだのも門崎さんだった(共著:北海道の自然・ヒグマ/北海道新聞社/1987年)。門崎允昭さんはむろん共著のほか自身の著書も多数あり、ヒグマ研究の第一人者だといえよう。
門崎允昭(かどさき・まさあき)
1938 年・北海道帯広市生まれ。帯広畜産大学大学院修士課程(獣医学)修了。その後、北海道開拓記念館に勤務し野生動物の研究を行い、北海道開拓記念館を退職後に北海道野生動物研究所を設立。獣医学修士、北海道大学農学博士(1981 年:鳥類の肺及び気嚢の形態並びに機能に関する研究)。1991年、森林野生動物研究会常任理事。現・北海道野生動物研究所所長。著書:北海道の自然『ヒグマ』北海道新聞社/1987 年(犬飼哲夫氏との共著) 『野生動物調査痕跡学図鑑』北海道出版企画センター/ 2009 年 『羆の実像』北海道出版企画センター/2019 年 『ヒグマ大全』北海道新聞社/ 2020 年 など。
ヒグマの行動規範を理解する
上記、北海道が行なってきた調査研究の名目はヒグマとの共存共生にある。しかしながら捕殺頭数は減少しておらず、むしろ近年は増加傾向にある。対して門崎允昭さんは次のように話す。
「共存共生とは人的経済的被害を予防しつつ、狩猟以外ではヒグマを極力殺さないことです。ヒグマの行動、生態を理解することでそれは充分に可能です」
近年、ヒグマ被害が増えた原因については次のように考察する。
「ハンターの高齢化などで(主な捕殺の形態が)猟銃による駆除から箱わなによる捕獲(捕獲後駆除)へと変わり、ヒグマが人を恐れなくなったことも要因だと思われます」
市街地や農地への出没についてはいずれ取り上げたいと思うが、まずは釣り人が行なうべき対処法に言及しておきたい。道内の釣り人の場合、多くはクマ避けの鈴を携行し、それとともにクマ避けスプレーを常備する人も多いに違いない。この手法に間違いはないのか、あるいはヒグマと遭遇しないための有効策はほかにもあるのか。その点が気になるところである。
行動規範を理解しておけば、被害のほとんどは防ぐことができると門崎さんは断言する。たとえばヒグマが人を襲う場合には以下の4つの行動が挙げられると言う。
ヒグマが人を襲う原因は『排除』『食害』『戯れ、苛立ち』『その他(複合要因など)』の4つに大別でき、そのうちもっとも多いのは『排除』のために襲う事例です」
ここでいう『排除』にはいくつかのパターンがある。ひとつは不意に人間と遭遇した場合だが、驚いたヒグマが先制攻撃してくることがあるという。または小グマを連れた母グマは子を保護するために威嚇行動に出る。それが攻撃に発展する事例である。このほか人間が所持している食料や作物などを入手するためや、すでにヒグマ自身が確保したものや縄張りを保持し続けるのに人間が障害になる場合、それを排除する目的で襲うこともある。さらにハンターなどに攻撃されたり脅威にさらされた際反撃するといった事例が『排除』に含まれるという。
このほか『食害』は空腹時に動物性の食物(肉)を渇望している際に人を襲う事例。『戯れ、苛立ち』は人間を戯れの対象とする場合、あるいは何らかの理由で苛立っている時、狂気的に襲う事例が相当する。
上記、人を襲う原因(上記の事例)が複合的に重なったもの、あるいは最初は排除目的だったものが途中から食害に移行する事例などが『その他』に含まれる。
これら人を襲う原因の4パターンは、門崎さんが過去のありとあらゆる被害を検証した結果により、その傾向を示したものである。つまり人を襲った事例のみを抽出しているわけだが、むろんヒグマとの遭遇で人が必ず襲われるわけではない。むしろヒグマは人知れずその場を離れている場合が多いという。
ヒグマにとっても人間は恐ろしい存在なのだろう。そのため人の気配を察知するとヒグマは危険を回避しようと離れてゆくというわけだ
ヒグマはすぐ傍にいて、人が離れるのを待っている?
「ヒグマは人に遭遇しないよう注意を払いながら行動しています。人がいることを知らしめればクマのほうから離れてゆくんです」
ヒグマによる被害を報道などによって知った人々がヒグマを恐れるように、ヒグマにとっても人間は恐ろしい存在なのだろう。そのため人の気配を察知するとヒグマは危険を回避しようと離れてゆくというわけだ。
たとえば、ヒグマが人に気づいて別の場所に移動する際、ゆっくり離れてゆく場合と急いで走り去る場合とがある。前者の場合は人のほうがヒグマの存在に気づかないこともあるが、後者は派手な動きのため逃げる姿を目視せずとも大きな音にビックリさせられる。
また、人が近づいた際にその場でしばらくようすをうかがっていることもあるが、人が離れることで危険は回避される。人とヒグマの距離が10〜20m離れているとき、ヒグマが平然とその場を離れないこともあるが、これは身に危険が及ばないことを信じての行為であるという。
筆者も道南地方の渓流でヒグマに遭遇したことがある。距離にしておよそ20m程度。ヒグマは筆者に気づいていたと思われるが、悠然と水際のフキを食べあさっていた。こちらからゆっくりと後退したことで事なきを得ている。
このような山林においてある一定の距離がある遭遇の場合、門崎さんは「ヒグマに話しかける」のだと言う。
もちろん大声で騒ぎ立てるのではなく、優しく声を掛けるらしい。
門崎さんは以前(ヒグマの調査時)、とある林道を歩いていた際に向かってくるヒグマと鉢合わせになった。ヒグマは人間(門崎さん)がいる方向へ向かおうとし、人間の側もヒグマがいる方向に自家用車を停めていた。ヒグマが林道から離れて林に入ってくれなければすれ違うしかない状況。しかしヒグマにとってもヤブ漕ぎよりは林道のほうが歩きやすい。この時、門崎さんは話しかけるように声を出し(大声ではない)、ヒグマとの距離数mの状況で何事もなくすれ違ったという。
それができる人が果たしてどれだけいるのかは分からないが、もちろん素人に同じことができようはずもない。我々素人は『遭遇しないこと』が最善なのである。
先にヒグマを見つけるような歩き方が重要
「クマに自分が見つけられる前に、先にクマを見つけるような歩き方、進み方をするべきです。クマがいるかもしれない場所、背丈の高い草が密集している場所などでは歩みを停めて周囲を確認する。渓流釣りに入る場合にはホイッスルとナタを携行するといいでしょう」
クマ鈴ではダメなのだろうか
「クマ鈴を推奨する人もいますが、川沿いなど流れの音がある場所、あるいは風の強い日は聞こえません。ホイッスルのほうがはるかに音が大きい。これを5分か10分に2〜3回でも吹いて歩けば、不意に出会っての事故というものは防げる。多くはそうした対策をやらないで襲われているんです。これは農作業に出掛ける人にも同じことが言えます」
ナタも必須だと門崎さんは言う。ご自身も調査の際には必ず携行しているようだ。
「ナタを持って反撃すれば助かる事例があります。哺乳類は全身の皮膚に痛覚神経があるため、ナタで反撃すると痛いと思ってそれ以上攻撃してこなくなる。過去の事例をみてもナタで反撃することで助かっています。これらを持たずに襲われても自己責任だと思って下さい」
クマと遭遇したら死んだふり、という説もあるが、どうなのだろうか
「ダメですね。クマの攻撃は30秒から1分で終わるので死んだふりが有効だという人もいますが、うつ伏せ状態でもかじられたりしたらジッとしていられませんよ」
死んだふりが有効との説はツキノワグマの事例を参考にしているのかもしれない。確かに対ツキノワグマでは死んだふりで助かった事例はあるようだが、ヒグマとは身体の大きさからして異なる。体重が300~400㎏にもなるヒグマの場合、踏まれただけで致命傷になりかねないのだから、死んだふりはNGだといえる。
次のページでは熊よけスプレーについて考察しています。
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