「豊かな球磨川をとりもどす会」事務局長で八代市在住のつる詳子さんに話を伺っています。ダム建設の是非は治水効果や失われる自然の恵みなどあらゆる知見を総合的に判断して落としどころを探さなければ結論が出ない問題ですが、球磨川下流域の荒瀬ダム撤去工事がもたらしたもの、流域の人々がダムを水害発生装置と恐れる理由など、今だからこそ知っておきたい人々の声をシェアします。
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以下、記事本文
浦 壮一郎◎写真と文
全国各地で今なおダム建設が進むなか、熊本県の球磨川では荒瀬ダムの撤去工事が完了した。そのダム撤去運動に当初から携わってきた八代市在住のつる詳子さんは、現在も撤去後の環境変化について調査し続けている。ダム撤去実現によって流域にどのような変化がもたらされたのか、その現状と展望を聞いた。
※この記事は『つり人』2020年4月号に掲載されたものを再編集しています
目次:後編
川辺川ダム反対運動と荒瀬ダム撤去運動
全国各地でいまだ新たなダム建設が進むなか、熊本県の球磨川では荒瀬ダムの撤去工事が完了した。かつてダムのあった地点にはそれを知らせる看板等があるものの、注意を払わなければ通り過ぎてしまうかもしれない。ダムの湛水域(貯水域)には建設前に見られた瀬が甦り、夏期になると友釣りファンも訪れるようになったという。特に球磨川河口周辺の変化は大きく、絶滅寸前にあった生きものですら復活しつつあるという。球磨川といえばかつて川辺川ダム建設計画で物議を醸したことで知られる。熊本県の相良村に計画されていた川辺川ダムは、ダム建設予定地の上流に位置する五木村が水没するとして反対運動の機運が高まり全国的に注目を集めた。
同ダム計画は当時の潮谷義子熊本県知事のリーダーシップにより、2001年12月から住民討論会が開催されたのを機に、流域全域でその問題の本質について理解が深まることとなった。その後は相良村、人吉市などが反対を表明し、現・蒲島郁夫知事が2008年に「白紙撤回」して現在に至る。こうした時代背景、川辺川ダム反対運動と並行して議論されてきたのが荒瀬ダム撤去運動だった。
その実現には、潮谷前知事をはじめとしたさまざまな人々が関わり合っていて、いうまでもなく流域住民の団結が実現に向けた大きな力になったといえる。
荒瀬ダムは終戦後の電力不足のさなか球磨川総合開発計画に基づき1953年に着工、1955年に完成した球磨川初の大規模ダムである。2018年3月に撤去工事を完了し、現在はダムがなかった頃の流れが復活している。
荒瀬ダムの撤去前(上)と撤去後(下)。湛水域は夏になるとアオコが発生していたが、現在はダムが存在したことを感じさせない本来の流れを取り戻している。痕跡は両岸にわずかなコンクリート構造物が残るのみとなった
撤去運動に携わってきた熊本県八代市在住のつる詳子さんは、『豊かな球磨川をとりもどす会』事務局長として川辺川ダム建設の反対運動、そして荒瀬ダム撤去運動に尽力してきたひとり。現在も荒瀬ダム撤去が自然環境にもたらす影響についての調査を継続しており、その変遷を現地案内や講演活動のほか、SNSなどでも発信し続けている。さらに球磨川上流部のクマタカの調査、河川の生物、水生昆虫や藻類、干潟の生物や堆積物など、全国の研究者とも連携を取りながら調査を進めてきたという。
撤去要望の高まりは度重なるダム水害から始まった
「(ダムによる)水害はもうこりごり、というのが流域に暮らす人々の思いでした。それが(ダム撤去を求める理由として)一番大きかったと言えます。ダムの下流域も湛水域も、ダムが完成してからは水害に悩まされてきたからです」ダム撤去に向けて流域が団結できた理由のひとつとして、つるさんは冒頭に水害を挙げた。荒瀬ダムが完成してから撤去されるまでのおよそ60年もの間、流域住民はダム水害に悩まされ続けてきたからだ。
ここでいう水害には大きく分けて2つの例がある。2例に分類する理由としてはダム上流と下流でそれぞれ異なる水害が指摘されているからだ。ダム上流部は貯水による水位の上昇により引き起こされる洪水、下流部は緊急放流による急激な水位上昇等が問題視されてきた。
荒瀬ダムもそれは同様であるが、特にダム下流部の旧坂本村(現八代市坂本町)の反発は大きかったようだ。ダムが完成してから洪水の質が大きく変化したのだ。つるさんは川辺川ダム計画や荒瀬ダム撤去運動に携わってきた関係上、流域のさまざまな人から聞き取り調査を行なってきた。その一部を紹介してもらった。
「(荒瀬ダム下流の)坂本町はもともと年に一回は洪水に見舞われる地区だったので馴れていました。普段から2階に大切な物を置くようにして、水の流れとか水位を見ながら今日は畳を上げんでもいいとか、上げんといかんとか、天気予報がない時代にそれぞれの家々が判断をして対処をしていたんですね」
荒瀬ダムがなかった当時、台風などの大雨が降った場合でも水位の上昇は緩やかだった。また大水に馴れていたこともあり、川辺に暮らす人々は水かさの増えぐあいによってどの程度まで水位が上昇するのか予測できたという。こうした備えによって被害は発生しなかったとつるさんは言う。
「球磨川本来の大水は、恵みはあっても害はなかったということです。だから『水害』という言葉もなかったんですよ」
そればかりか洪水を楽しみにしていた人すらいたというから驚きである。
「大水が来ることが分かると、坂本町の人たちは畳を上げるとかの準備を済ませて、早くアユを獲りに行きたかったって言うんです。増水で球磨川が濁ると、その濁りを嫌ってアユが岸に寄ってくるじゃないですか。どこの家でも1m50㎝くらいの大きな網を持っていて家族総出でアユをすくいに行っていた。地域の人たちにとって洪水はタンパク源を確保する絶好の機会になっていたんです。流域の人、誰に聞いてもいいです。(昔を知る人は)みんな大水が待ち遠しかったって言いますから」
ところが荒瀬ダムが完成すると状況は一変する。
「坂本町は2㎞上流にダムがあるわけでしょ。となると予測もなにもないんですよ。いきなり水が来るという感じで(ゲートの開放により急激に増水する)。それまで2階が浸水したことはないのに、ダム完成後は2階まで水が来るようになってしまった。何よりヘドロ、ダムがない頃はサラサラのきれいな砂しか流れてこなくて、その砂も庭に撒いたり、畑にまいたりと利用法があったというんです。ところがダムができるとヘドロが押し寄せるようになった。ヘドロは乾燥すると固まるので大水が去った後も大変になってしまったんです」
それまで恵みを与えてくれていた大水は、ダム完成とともに害をなすまさに『水害』へと変わってしまったのだ。
「このおびただしい量のヘドロはどこから来たのか。言うまでもなくダム以外に説明がつかないですよね。いくら想定外の大雨と言っても(きれいな砂が)ヘドロに変わるはずはないですからね」
予測できない急激な増水、そして復旧を困難にするヘドロ。これらが流域住民を苦しめ続けたことで、撤去を求める声が高まっていったというわけである。
誰が見ても分かる下流域の環境回復
当然のことだがダム撤去により環境も大きく回復してきた。特に下流部における回復はめざましいものがあるという。撤去工事は2018年3月に完了したが、撤去に備え水門が開放されたのは2010年4月。この時点ですでに減水区間となっていた下流部は流れが回復し、ダム上流も湛水域によって消失していた7つの瀬がその姿を見せ始めた。夏になるとダム湛水域にはアオコが発生し悪臭を放っていたが、それも解消されている。
ダム地点の現在の流れ(2020年2月)。撮影時は上流の瀬戸石ダムが浚渫作業を行なっていたため濁りが生じていたが、ダム撤去後の水質は飛躍的に改善されたという
つるさんによれば、荒瀬ダム撤去により大きな変化が見られたのは、特に干潟。とりわけ八代海(不知火海)への影響は大きいと言う。
「地図を見てもらえば分かりますが、八代海に注ぐ大きな河川は球磨川しかありません。つまり河川による影響(および恩恵)は、そのほとんどが球磨川から受けていると言っても過言ではないんです。荒瀬ダムが完成してからというもの、八代海ではたびたび赤潮が発生していましたが、撤去工事が始まってから球磨川由来の赤潮は発生していません。今発生しているのは(対岸の)ブリ養殖場から発生した赤潮です」
赤潮がなくなるなど水質が改善すると、球磨川河口ではアオノリが復活し始める。
「撤去の準備という理由で荒瀬ダムがゲートを開けた時、上流の瀬戸石ダムもゲートを開けたんですね。2つのダムが全開する訳ですから、ものすごい量のヘドロが流れたんです。『こんなものすごい量の泥水が流れてきたのは初めてじゃけん、なにがあったんか、雨も降ってないのに』と(八代海の)対岸の漁師さんから私に電話が掛かってきたほどでした。河口はアオノリ漁の季節でしたがヘドロのせいで全滅してしまいました」
当初、ダム撤去による堆積物(ヘドロ等)などの影響で下流部の漁業は壊滅的被害が生じたと思われた。ところが……。
「ひと月もするとアオノリがどんどん成長し始めました。それまで八代の漁師さんたちは河口のアオノリはせいぜい30 ㎝くらいまでしか延びないと思っていた。それが1・5~3mまで延びるようになった。ゲートを開けただけで、ですよ。深いところまで潜った人の話では4~5mにもなっていると言う。つまりそこまで光が届くようになった、水質が飛躍的に改善したということです。もちろん味もすごく良くなりました」
水質だけでなく底質も改善が見られる。荒瀬ダムから河床の礫が運ばれたことがその要因だ。かつてアサリやハマグリ、マテガイ、タイラギなど二枚貝の一大漁場だった球磨川河口だが、度重なるダム建設で漁獲高は激減していた。本来なら砂で覆われているはずの干潟には泥が堆積し、貝漁を行なうにも足をとられて歩くことさえ困難だったという。現在の干潟は砂が供給されたことで歩きやすくなり、さまざまな生きものが回復し始めたのだ。
「砂が供給されるとハマグリやマテガイも増え、アマモ場も面積が広がって、そこを休憩場所にするウナギも増えました。いきなり生きものが増え始めたという感じでした。今はそうでもないんですけどね」
今はそうでもない、とはどういうことか。実は歩きやすくなったことが逆効果をもたらした。潮干狩りに訪れる人々が急増したのである。
「みんなが入れるようになったので獲り尽くしてしまう状況、完全なオーバーユースです」
と、このように一般市民が入れるエリアは問題を抱えるのだが、河口域の干潟と沿岸に生きものが戻ってきたのは喜ばしいことである。
荒瀬ダムの撤去により河口部に広がる干潟は甦りつつある。マテガイ、タイラギ、アナジャコなどが増加した。それまで泥で歩けなかった干潟が砂地となったことで、一般の潮干狩り客が増加。そのため近年はオーバーユースが課題のひとつになっているという
アユが増えない理由は瀬戸石ダムにあり
ではアユはどうか。「とても増えているとはいえない状況」だとつるさんは言う。「ゲートを全開した翌年からソ上数が増えたり、水位低下の翌年に減ったり、澪筋が復活した後にまた増えたりと、何らかの変化で次々と影響が出るのかな、という感じはあります。が、荒瀬ダム撤去と因果関係があるとまでは言えません」
アユだけでなく他の種についても同様のことがいえる。かつて球磨川には60種以上の魚類が生息していたというが、ダム撤去前に18種だったものが撤去後に20種にまで増えたに過ぎないからだ。
「ダム建設によってどんな魚がいなくなったかというと海と川とを行き来する回遊性の魚、それと汽水性の魚、そしてきれいな水質に棲む魚です。ダム撤去によって増えたのはきれいな水質に棲む魚です。ですから、確かに数は増えたかもしれませんが種類が増えるにまで至っていない。たとえば上流の支流にしかいなかったドンコが下流部の本流でも見られるようになったとか、そういう状況です」
辛うじてアユが釣れているのは、汲み上げ放流など漁協の取り組みによるところが大きい。球磨川漁協は下流の球磨川堰で捕獲したソ上稚魚を瀬戸石ダム上流に放流しており、その取り組みなくしてアユ釣りを維持することは不可能なのだ。その現状は荒瀬ダム撤去前も撤去後もあまり変わっていないというわけである。
アユのソ上数はなぜ増えないのか。原因は荒瀬ダム地点より上流の瀬戸石ダム、下流の遙拝堰にあると考えられている。
瀬戸石ダムは電源開発(株)が管理する発電用ダムだが、荒瀬ダム同様、周辺自治体や流域住民らは撤去を求め声を上げていた。しかし2014年に20年間の水利権が更新されてしまったことから2034年まで存続される見込みだ。
アユにとってこのダムが問題視される最大の理由は、ダム堤から流れ込みまで約8㎞もの湛水域があること。流れのない区間があまりにも長く、産卵期の親アユが川を下ることができないからだ。
その瀬戸石ダムもゲートを全開にすることがある。台風などの接近で大雨が予想される場合と、浚渫作業のため水位を下げる際にゲートが開くのだ。
懸案の瀬戸石ダム。このダムがある限りアユのソ上が増えることはないと見られている。水利権の更新はまだ先だが、前倒しで撤去の判断が下されることを願う
瀬戸石ダム上流。11月中旬から2ヵ月間、浚渫作業に伴いゲートが開放されていることから湛水域(ダム湖)はない。浚渫が終了して貯水が始まると(水位が高くなると)、周辺住民は再び水害に脅える生活となる
「瀬戸石ダムは水害の原因になっているダムで、所有者の電源開発に対して『堆積した土砂を除去しなさい』という形で国交省からの指導が入っています。そのため11月中旬から約2ヵ月間ゲートが開放されるわけです。昨今は気候変動によってアユの産卵が遅れる傾向がありますから、ゲート開放とタイミングが合えば親アユも下流に下ることが可能かもしれません。でも、今度は遙拝堰がありますから……」
荒瀬ダムがあった場所では撤去によりいくつもの瀬が復活している。それらの瀬は瀬戸石ダムの下流、遙拝堰の上流であることからも、瀬戸石ダムを通過した親アユたちは復活した瀬を産卵場所に選ぶかもしれない。しかしながら、そこで生まれた仔魚たちに今度は遙拝堰が立ち塞がる。
ご存じのようにアユの仔魚は遊泳力がない。よって流れのない遙拝堰の湛水域が大きな障害となり、海に辿り着くことができないというわけだ。
「生まれた仔魚は遙拝堰の湛水域で死んでしまいます。ですから産卵場は遙拝堰の下流しかない。そこまで親アユが辿り着いて初めて翌年のソ上に繋がるという状況。これは荒瀬ダムがあった時と何ら変わりません。産卵の時期に瀬戸石ダムと遙拝堰、この2つの堰がゲートを開けてくれるだけで全然違うと思います」
干潟の生きものやきれいな水質に棲む魚類が復活しつつある反面、アユは一向に増える気配はない。それは他の回遊性魚類も同様である。
河口から約9km の位置にある遙拝堰(ようはいぜき)。荒瀬ダム撤去によって復活した瀬でアユが産卵したとしても、この堰の湛水域がアユ仔魚の降下を妨げることになる。瀬戸石ダムと遙拝堰、この2つの構造物が球磨川のさらなる再生を阻んでいる
コンクリート護岸率が61%の球磨川
ダム撤去を実現させた球磨川における今後の課題は瀬戸石ダムと遙拝堰だといえる。が、それだけではない。球磨川河口や八代湾で増えているとされるウナギだが、全国的に見ると激減していることはご存じのとおり。その原因のひとつとしてコンクリート護岸に焦点をあてた解析結果(2014年/東京大学大気海洋研究所などの調査グループ)がある。この調査によると全国18河川の内、コンクリート護岸率が61%で第1位になったのが球磨川なのだ。清流として売り込みたいはずの熊本県としては実に不名誉な結果。ちなみに第2位も同じく熊本県の緑川(45%)であることから、同県はどうやら河川をコンクリートで固めることに後ろめたさを全く感じないようだ。
このほか荒瀬ダム撤去と関連した余計な工事も実施されている。甦るはずだった球磨川の支流が工事によって台無しにされたのだ。つるさんは呆れながら次のように指摘する。
「ダム撤去で最も早く自然が回復したのが支流の百済来川(くだらぎがわ)でした。いろいろな魚が戻ってきて、これからが楽しみな川だったのですが、ここも今は酷い有り様になってしまいました」
百済来川は荒瀬ダムがあった頃の湛水域に左岸から合流する支流のひとつ。ゲートが開放され湛水域がなくなると、百済来川に堆積していた土砂も下流に流れるようになった。堆積土砂が流れによって取り除かれると河床は荒瀬ダムがなかった頃の本来の高さに戻ろうと下降を始め、河岸に堆積していた土砂も下流へと流れ始めた。すると荒瀬ダム建設前にあった小さな堰が崩れた状態で姿を見せ始めたという。
この場合、何かしら手を加える場合でも本来の河床高に戻るまで、川が安定するまで待つのが定石である。ところが、
「地元の業者が『護岸が掘削されている』『復旧工事をせんといかん』と言って、堰も護岸もコンクリートで固めてしまったんです。これから河床が本来の高さまで下がろうとしているその時にですよ。まだまだ掘削が進むというのに、今度は『河床掘削も起こっているから根固め工事をせんといかん』と言って、その工事をやってしまったんです。川は戻ろうとしているところでいま根固め工事なんてやってもすぐに浮いてきますよ、って指摘したんですが……、すでにそのとおりになっています」
撤去前、ダム湖に合流していた支流の百済来川は堆積していた土砂が流下し、本来の流れを取り戻そうとしていた。河床が下がる過程にあったこの支流に根固工やコンクリート護岸などの工事が入り、すべてを台無しにしてしまったという。すでに、水の中にあるはずの根固工は河床低下によって露出しており、愚策の典型として語り草になっている
ゲート開放直後、百済来川の河床は堆積土砂によって異常なまでに河床高が上昇している状態にあった。ゲートの開放によりそれらの土砂が下流に流れる途上であれば、河床高は下がり続けることになる。
そのさなかに根固工を入れるというのは常識的にはあり得ない。河川整備に携わっている者なら誰もが非常識だと判断するはずだ。ところがここの河川管理者はいとも簡単に業者の口車に乗せられてしまったことになる。
「今では無意味な工事をするとこうなるっていう、そんな説明ができる場所になってます」
川を知らない素人が川をいじくる典型的事例といえるかもしれない。河川管理者には猛省を期待したい。
ダム撤去の効果=地域が元気になる
荒瀬ダムがゲートを開放してから10年、撤去工事が完了してから2年の歳月が流れた。ダム湖に堆積していた土砂は下流へと流れ、下流部と干潟を飛躍的に回復させた。ただし大半の砂や砂利が流れた下った今、瀬戸石ダムの影響が次第に顕在化し始めた。すでにアーマー化現象(※注)が流域に広がりつつあるという。※注)アーマー化/比較的流出しにくい大きめの石が河床に残り、ダム湖から流れてくるシルトによって鎧のように固まってしまう現象。石が動かない河床には腐敗した付着藻類などの河床付着物が留まりやすくなる。
「川の中は全国に見られるいわゆる普通のダム河川に変わろうとしています」
瀬戸石ダムがある限り球磨川が本来の流れを取り戻すことはできないということ。単なるダム河川へと逆戻りする前に次のステップに進みたいものだが、幸い環境回復のみならず人々の意識も変わりつつあると、つるさんは感じている。
「ダムがある時は地域がダム賛成、反対で分断されて何事もうまくいかなかった。ところがダムの撤去後はずいぶんと変わりました。再生した川の流れが対立していた見えない垣根を取り除いてくれたようにも思えるんです」
全国的に高齢化や人口減少が進む昨今、小さな集落ほどその傾向は強く、球磨川流域も例外ではないだろう。しかしダム撤去が始まってからというもの、球磨川沿いには若者が戻りつつある。ラフティングなどの川遊びを体験させる会社が3社となったほか、ダム湖があった時代に休業していた温泉旅館も、それまで熊本市に暮らしていた跡継ぎが営業を再開したという。
およそ60年以上前「荒瀬ダムができたら観光で潤う」といわれて営業を始めた『鶴之湯旅館』だが、見込みが外れてしばらくのあいだ休業が続いていた。ダムが撤去された現在、創業者のひ孫にあたる土山大典さんが木造3階建ての見事な旅館を守りつつ営業を再開している。ダム湖がなくなった今、旅館の窓からアユの姿を見ることができるという
「八代市内でも川遊びする人たちが増えてきた。球磨川って緑色っていうイメージがずっとあったのに、水が流れるようになったら透明な青に変わった。やっぱすごいなぁって思う。そして、水がきれいになると地域に活気が出てくるんですね。球磨川を活かした地域再生をどうするのか、さまざまな年代の人が考えるようになりましたし、次から次へと地域おこしのイベントが企画されるようになりました。ダム撤去の一番のメリットは地域が元気になる、地域をひとつにすることなんだってつくづく思います」
太古から人間は清みきった美しい川、豊かな川に住処を求める習性があった。荒廃した川を離れて街を目指した人々も今、甦りつつある川を求めて回帰しようとしているのだろうか。人が集まればさらなる再生へと歩む流れも次世代に受け継がれるだろう。球磨川が川と共に生きる暮らし、そして清冽な川のある風景を取り戻す牽引役となることを願ってやまない。
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