僕が子どもの頃はタナゴ釣りといえば竹ザオを使う人ばかりでした。小学生の頃は適当なサオでしたが、始めてタナゴザオを購入したのは中学1年生の時です。お年玉をためて、駒込のタツミ釣具店で購入しました。竹水(チクスイ)って名前の、おそらく川口の職人が作った数ものザオ(※量産された竹ザオ)です。値段が1万2~3000円なので当時の僕でも買えました。スタンダードな8寸切りの10本継ぎ。ヘビ口を付け替えて。今も大切に持っています。丸くしっかりと削れていて、なかなか上手なサオだと思います
土浦駅の裏でアカヒレタビラが釣れた
文と写真=編集部
全国各地のタナゴを釣り歩いてきた熊谷正裕さんの人生には、タナゴ釣りの歴史の一端が見える。豊かだった釣り場のこと、感銘を受けた名手の釣り、そして豊かな多様性をもつタナゴの生態まで、現在に至るタナゴ釣りの思いを振り返っていただいた。
目次
- 第1回:田端駅の車両基地の前でタナゴが釣れた
- 第2回:土浦駅の裏でアカヒレタビラが釣れた
- 第3回:タナゴ旅の始まり。
◆関連記事
持続可能なタナゴ釣りのために釣り人ができること。熊谷正裕さんの提言
くまがい・まさひろ
1964年・東京都北区生まれ。全国の名もない水路や小川を旅して在来タナゴを釣り歩いた本『タナゴ釣り紀行』の筆者のひとり。近著は『日本のタナゴ』山と渓谷社刊 (2020年発行)で「タナゴ釣りの文化」を分担執筆
土浦駅の裏でアカヒレタビラが釣れた
――どんな釣具を使っていたのですか?
熊谷 僕が子どもの頃はタナゴ釣りといえば竹ザオを使う人ばかりでした。小学生の頃は適当なサオでしたが、始めてタナゴザオを購入したのは中学1年生の時です。お年玉をためて、駒込のタツミ釣具店で購入しました。竹水(チクスイ)って名前の、おそらく川口の職人が作った数ものザオ(※量産された竹ザオ)です。値段が1万2~3000円なので当時の僕でも買えました。スタンダードな8寸切りの10本継ぎ。ヘビ口を付け替えて。今も大切に持っています。丸くしっかりと削れていて、なかなか上手なサオだと思います。
中学1年生の時に初めて竹ザオを購入。8寸切10本継ぎの当時スタンダードだった長さのタナゴザオである
仕掛けは素舟のウキや目印を使うことが多かった
あづま式のトンボや安価で購入できてよく使ったという
タナゴザオといえば昔は8寸(約24.2cm)切りの8本継ぎが主流でした。マタナゴのミャク釣り用は10本継ぎが主流で、もっと長いサオを使っている人もいました。昔の月刊つり人には「長いサオで沖めを探ると釣れる」と書いてあります。最近のタナゴ釣りはこの伝統がなくなって極端に短いサオが増えています。
仕掛けも適当で「素舟(そしゅう)」という今はないメーカーの仕掛けが釣具屋さんに多く、それをよく使っていました。あと「あづま式」と書かれたトンボ目印もよく使った。ミャク釣りもしましたが、ウキ釣りのほうが楽しかった。ミャク釣りは魚が多いところで見釣りができると面白い。
――中学生になってからよく行った釣り場はどこでしょう?
熊谷 土浦の桜川周辺です。例会にも相変わらず連れて行ってもらいましたが、友達と電車釣行することも多くなりました。日暮里駅5時55分発の電車によく乗ってね。電気機関車が客車を引っ張っていくんです。それに乗って1時間半かけて土浦駅へ行きました。西口で下りてロータリーにある阿部釣具店でエサのアカムシを買い、釣り場の情報をもらいました。当時の桜川はまだ護岸がほとんどされていませんでした。自然護岸されたところは杭が打たれて、その杭周りにたくさんのタナゴがヒラを打っていた。ほとんどがヤリタナゴでしたね。河口から上流に行くと「鈴木釣り舟店」という船宿がありました。10mくらい沖合に舟が係留してあって桟橋が架かっていて、その舟下にもタナゴがいた。僕の下手な仕掛けでも結構楽しめました。型も大きくて10cm近いヤリタナゴが釣れる。あとは土浦駅のすぐ裏にある「駅裏のドック」でもアカヒレタビラが釣れた。とにかくあの頃は霞ヶ浦全域でいろんな釣りが季節ごとに楽しめて、釣り舟も多かった。ワクワクしましたよ。
清明川や桜川のタナゴ釣り風景。つり人1977年3月号
宇留間さんのミャク釣り仕掛けの解説イラスト。マタナゴの多かった霞ヶ浦ではミャク釣りが主流だった。つり人1969年1月号
1975年2月号の吉田喜一さんの記事。「タナゴ釣り新研究 オカメタナゴのウキ釣り」と題されている
清明川や菱木川もヤリタナゴとアカヒレタビラばかり。本湖の舟溜まりにはオカメの多い釣り場が所々ありました。オカメは色が残っている魚が多く、釣れるとうれしかったです。マタナゴはフナみたいでね。特に1、2月は全く色がない。あえてオカメを釣りたいと思った時は埼玉の釣り場に行きました。
――1979年、高校に進学して何か変わったことがありましたか?
熊谷 高校1年生の春から上州屋でバイトを始めました。僕は都立高校に通っていて自由にバイトができたんです。その頃の上州屋は都内に3店舗くらいしかなく各地でチェーン展開をしていない時代です。本店の北千住のお店でバイトをしていました。1階は海、2階は淡水。僕は2階の担当でした。学校は板橋にあって王子からバスで千住へ。部活動はせずアルバイトへ直行して週4日くらい働きました。時給は450円くらい(笑)。釣具店は目の毒です。物欲を刺激されてほとんど給料を釣り具に注いで。10軒くらい先に創業者の鈴木健一社長の家があって、生家の豆腐屋さんの面影がありました。鈴木社長はたまに見回りにきて「頑張ってるか?」と声をかけてくれましたね。
そのころはオリンピックのカーボンロッドが出回るようになって、ダイワの渓流ザオも買いましたし、タナゴの竹ザオも新調しました。釣りキチ三平が大ブームで老若男女がお店に来ました。お店自体が宝箱のようで楽しかったですね。
お客さんに釣りに連れて行ってもらったこともあるし、単独釣行も多くなりました。釣り場マップや新聞を参考にポイントを開拓するんです。園部川も石岡からバスに乗ってよく行きました。まだ現在のオカメスタイルは確立されていませんでしたが、印旛沼とか手賀沼にはオカメが多くなってきて機場周りでは短ザオで釣る人をちょくちょく見かけるようになりました。
こちらの記事は『つり人』 2022年2月号に掲載したものをオンライン版として特別公開しています!