「香魚」とも呼ばれるアユ。とれたての一尾は、キュウリやスイカを思わせる爽やかな香りがする。川魚といえば生臭いイメージを持つ人も多いはずで、初めてこの香りを知ると誰もが驚く。だが、もっと驚く話がある。
この爽やかな香りをつくる成分の一つ「ノネナール」は、実は人間の「加齢臭」の原因物質として知られる成分でもある。同じ物質が、片方では「香魚」と呼ばれる魚の爽やかな香りになり、片方では中高年の悩みの種になる。何とも不思議な話だ。では、香りだけでなく「味」はどうなのだろう。アユ釣りをしていると、全国各地で必ずといっていいほど聞く言葉がある。「ここのアユは日本一旨い」。果たして、「日本一旨いアユ」など本当にあるのだろうか。

写真と文◎山根和明(株式会社つり人社代表)
つり人社代表取締役社長。日本釣振興会理事。大学在学中にアルバイトとしてつり人社に入り、卒業後に入社。1946年創刊の月刊「つり人」編集部に配属される。
2006年に同誌編集長、2015年に代表取締役社長に就任。釣りメディア一筋で、企画・編集・事業開発までを一貫して手がけてきた。また、釣り文化の普及と次世代育成にも力を注いでいる。2026年4月刊行の著書『カッパのいない川で子どもは育つか』は、発売2日目でAmazonカテゴリランキング1位を獲得。
果たして「日本一旨いアユ」は存在するのか?編集長との苦い思い出
30年以上、全国各地にアユ釣りの取材へ出かけてきた。行く先々で、「この川のアユは日本一旨い」と聞かされる。駆け出しの頃は、その話を鵜呑みにして記事を書き、「バカ野郎、この川のアユがそんなに旨いわけないだろう」と編集長から怒られたものだ。
忘れられない夜がある。新米だった頃、編集長の取材に同行したときのこと。宴席で、地元のベテランアユ釣りファンが満面の笑みで焼き立てのアユを勧めてきた。
「編集長、ここのアユは日本一美味しいですから、ぜひご賞味ください」
編集長は箸をつけずに、こう言い放った。
「私はここのアユは食べません。美味しくないからです」
座は一瞬で凍りついた。ベテランは顔を真っ赤にして声を荒げた。
「編集長、あんた何様だ。食べもしないで、なんてことを言うんだ」
編集長も引かない。
「あなたは日本一と言いましたね。日本各地のアユを食べた上での話ですか。私は食べています。全国のアユを食べてきた結論として、ここのアユはうまくないと言っている」
板挟みになった私は、ただアユにかぶりつくしかなかった。
「山根、どうだ、うまくないだろ」と編集長。とっさに、「いえ、美味しいです」と答えると、「バカ野郎、お前にアユの味なんてわかるか」と一喝された。
もうどうなることかと思ったが、一時間後には、編集長とベテランは肩を組んで酒を酌み交わしていた。
あのとき編集長が伝えたかったのは、アユの味そのものではない。「日本一」という言葉は、比較する相手を持たない人が言えば、ただの地元愛になる。全国を食べ歩いた人が言えば、根拠のある評価になる。同じ言葉でも、その裏にある物差しはまるで違うということだ。
私はあの夜、そのことをアユ一尾で叩き込まれた。
それでも、本当に旨いアユは存在する
一方で、こんな話もある。
高知県友釣会連盟が毎年開く「清流めぐり利き鮎会」は、利き酒ならぬ利きアユ、アユの食味を競う大会だ。私も審査員として参加させてもらったことがある。昨年の第26回大会は全国57河川、2200尾を超えるアユが出品された。そのような会において、過去26回の中で最多4度のグランプリに輝いているのが、岐阜県の和良川である。
私が初めて和良川のアユを食べたのは、この大会が始まるよりも前のことだ。現在の組合長・大澤克幸さんがまだ一組合員だった頃、昼食にと、釣ったばかりのアユを炭火で焼いてくれた。
「ここのアユは日本一美味しいですから」
またその台詞かと、正直、話半分に聞きながら箸をつけた。
驚いた。
本来なら苦みを伴うはずのアユのはらわたが、甘い。それはまるで、ウニのようだった。
「大澤さん、これは何ですか。はらわたがウニみたいに甘いですよ」
思わず口にすると、大澤さんは意外な答えを返した。
「そうなんですよね。僕はここのアユしか知らなかったので、アユはこういうものだと思っていたんです。アユ釣り大会に出るようになって、他の川のアユを食べてみて、はらわたが苦くて驚きました。あれが本来のアユだったんですね」
自分にとっての当たり前が、実は例外だった。大澤さん自身がそれに気づいた瞬間の話だ。
私も全国各地のアユを食べてきたが、川が違えば、香りも、身の味も、はらわたの味も違う。和良川のアユを食べたとき、その違いがこれほど大きいものなのかと驚かされた。
アユの味を決める4つの要素
一番の要因は、アユの主食である苔(付着藻類)の質だ。この苔の質を左右するのが、水質と石の質である。岐阜地方の川がグランプリを多く獲っているのは、これを物語っていると思う。
もう一つ、見落とされがちだが重要なのが、アユの獲り方だ。
友釣りは、アユが持つ縄張り本能――侵入してきた他のアユを追い払おうとする習性――を利用した釣法である。縄張りを持つアユは、その場所の苔を安定して食べ続けている。
一方、毛ばりやエサ釣り、投網や刺し網で獲れるアユには、苔を食べていない個体が混じりやすい。苔がないとアユは虫も食べるが、虫を食べたアユはあのスイカのような香りが薄く、ウグイやオイカワと同じ、川魚特有の臭いがする。アユの買取所で友釣りのアユに一番高値がつくことが多いのは、このためだ。
タイミングも大事だ。
大水が出て、石に付着した苔や砂がいったん洗い流され、水位が下がって新しい苔(新アカ)が付き始めた直後。それを食べて育ったアユが、一番うまい。
そして、焼き方。
炭火でじっくり焼いたアユは格別だ。長良川沿いの奥美濃荘のように、一般的な魚焼きグリルでもカリッと美味しく焼き上げる技術もあるが、基本はやはり炭火だと思う。
水と石が苔を育て、苔がアユを育てる。そして、どこで、どう獲れ、いつ食べ、どう焼かれたか。それだけでも、一尾の味は大きく変わる。
先入観も味のうち?アユをいちばん美味しく食べる方法
「清流めぐり利き鮎会」では、出品されたアユがどこの河川のものなのかを伏せて審査する。
当然だろう。「これは有名な川のアユだ」「あの川は昔から旨いと言われている」。河川名が分かれば、どうしても先入観が入る。だから名前を伏せ、目の前のアユだけを食べて評価する。その条件で最多4度のグランプリに輝いたからこそ、和良川の実績には意味がある。

しかし最近、私はこんなことも考えるようになった。
私たちが普段、アユを食べるときまで、先入観を捨てる必要があるのだろうか。
自分で朝から川に立って釣ったアユ。毎年通い続けている、大好きな川のアユ。子どもの頃から夏になると家族で食べてきた故郷のアユ。そして地元の人から、「ここのアユは日本一美味しいですよ」と満面の笑みで勧められた一尾。
そんなアユを食べるとき、人は味覚だけで味わっているわけではない。その川の風景も、吹いていた風も、釣ったときの記憶も、一緒に食べている人も、すべてが味の一部になる。そんな思いまで、わざわざ取り払って食べる必要はない。
天然遡上が多い川の岸辺では、夏、風が香ると、スイカのような香りが鼻腔をくすぐることがある。アユ釣り経験者の多くが、一度はそれを経験しているはずだ。
冒頭で触れたノネナールは、人間では加齢に伴う体臭の原因物質として知られる一方、アユでは爽やかな香りをつくる成分の一つになる。同じ成分を含んでいても、一方は「加齢臭」と呼ばれ、もう一方は夏の清流を思わせる香りになる。
アユの味だって、案外それに似ているのかもしれない。
それでも今は、「日本一」を決めることより大切なことがあるように思う。目の前にあるアユを、美味しいと思って食べることだ。
その一尾も、つい先ほどまで川を泳いでいた一つの命である。日本一かどうかを決める前に、その一尾を美味しいと思い、ありがたくいただく。それが結局、アユをいちばん美味しく食べる方法なのかもしれない。
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