温故知新でひも解くバス釣り(第4回)西山徹が教える冬バスの“聖域”の見つけ方
なお、この記事が書かれたのは37年前であり、ルール、マナー、テクニック面で現在の常識と一部外れる部分がありますが、原文のままで掲載しています。どうぞ、そのことをご了承のうえお読みいただき、当時の西山さんが考えたこと、感じたことに触れてみてください。
温故知新でひも解くバス釣り(第4回)
西山徹=文
『Basser』が創刊される以前、1979年から1981年にかけて月刊『つり人』で連載記事「FLY & LURE 今月のおすすめフィッシング」が掲載されていた。 筆者は我が国のルアー&フライフィッシングのパイオニア、故・西山徹さん。 これは、今日のバスフィッシングの理論やテクニックが形作られる途上で、自らの頭で考え、方法論を確立していった西山さんの試行錯誤の記録である。筆者プロフィール
西山 徹(にしやま・とおる)
1948年、高知県生まれ。日本大学農獣医学部水産科卒業後、ダイワ精工(株)勤務。1983年から『THEフィッシング』のキャスターとして活躍したのち、フリーのフィッシングライターとなる。『つり人』へは1973年から寄稿。国内の魚類資源の減少を憂い、ルアー&フライフィッシングでのキャッチ&リリースを70年代後半から強く訴え続け、定着させた功績は大きい。1988年には、Basser ALLSTAR CLASSIC第2回大会に出場。ルアーフィッシングに関する著書多数。2001年に惜しまれながらこの世を去る。
今回の内容を簡単に……冬バスをルアーでねらう人がまだ少なかった時代、西山徹さんは2シーズンをウインターバスフィッシングの研究に費やしました。この記事では西山さんがこれまでに得たウインターバスフィッシングのノウハウから、冬のバス釣りの核心部分として、好スポットを発見する方法をのべています。
ウインターバス・フィッシング成功のカギ
昨年末以来、各地の湖でウインターバス・フィッシングに挑戦するバスフリーカーを見かけるようになった。喜ぶべきか悲しむべきか、複雑な心境である。かつてワームが登場し、その威力が分かり始めるとアンチワーム論が持ちあがり、トップウォーターが注目されるや日本中のバスフィッシャーがトップウォーターに傾注する。その結果、日本中のバスがトップウォーターにすれてしまったり、あのワームに対する反応すら鈍くなり始めている。ある条件により急激に活性を増した時は相変わらず会心の釣りができるが、多くの場合、バスはかつての荒々しさを失った。同じ現象が、冬のバス釣りにもやがて起こる。今のボク個人としては、やはり冬のバスはだれにも内緒でひそかに楽しみたかった……との未練が少しある。しかし、やがてだれかが気付く。結果が早いか遅いかだけのことなんだ。現在、過去、未来、いつの時代でも、バスフィッシャーはみんなバスを釣りたいのだ。バスフィッシングは年々むずかしくなっている。リリースされるたびに、バスはかしこくなる。結果として、ルアーを見破り続けたランカーサイズが残る――。それでいいじゃないかと、ボクは考える。
昨年の夏から秋にかけて、ボクは津久井湖でかつてないほど多くのランカーバスをヒットさせた。ウインターバス以来、連続的にせめた河口湖では、キールストリーマーで50㎝オーバーのバスをヒットさせ、自分のフライによるバスのレコードを更新した。ただひたすらにバスを釣りたい気持ちが次々と新しい釣り方を生む。他人から学び、書物から学ぶ知識は、常に一般論でしかない。より以上のノウハウは自分自身のフィールドで、魚から学ぶべきかもしれない。
冬のバスは、本当にむずかしい。1月、2月が正念場で、この厳寒期をこなせたら3月はやさしい。今月は、冬のバス釣りの核心部ともいえる好ポイントの発見法、そこで見せるバスの行動についてのべてみよう。
聖域のトレースこそ基本なんだ
冬にバスが釣れるといっても、いつでもどこでも釣れるわけではない。冬のバスは比較的居心地のいい場所に群れる。1ヵ所に集結するわけではなく湖の各部分に大小の群れを作り、それぞれの群れはある環境変化にともなって移動することもあるようなのだ。その行動は、温暖なシーズンのように人目に触れることがないから、まったくむずかしい。また、明らかにバスが群れている場所でも、ある時間帯には、まったく釣れない場合がある。より密度の高いバスの聖域を捜しだして、そのポイントのバスを連続的に観察してみると、多くの発見があるものだ。
初めてボクが、冬の河口湖で聖域に到達した経過は、次のようだった。このパターンは、ほかの多くのバスポンドでも、その後成功しているから、おおむね信頼できそうだ。
78年12月、ボクは河口湖の鵜ノ島南の溶岩帯でトップウォーターを楽しんでいた。連続的に通ううちに、トップウォーターゾーンが徐々にではあるが移動していることに気付く。やがてトップウォーターが沈黙し、ワームゾーンに変化。浅いほうからせめたトップウォーターの終着点と、深いほうからせめたワームの終着点が奇妙にも一致したのだ。12月末、ワームもクランクベイトも沈黙した時、バスは例のシンキングミノーにかすかなメッセージを伝えてくれた。
冬のバスの聖域を捜すには、1つのバスポンドで、盛期から連続的にヒットゾーンをトレースすることが、最高の手段であることは間違いない。得意とするポイントにこだわることなく、盛期は常に広範囲にバスを探る。そして、常にヒットの多かった場所をチェックしながら、範囲を絞っていくことこそ、最も確かな方法なのだ。
真冬でも、バスの聖域は移動する
小さなバスポンドでは、1ヵ所に群れたまま春まで沈黙することもある。ところが広大なオープンウォーター内では、厳寒期でもバスは移動する。引き続き河口湖の例をのべてみよう。12月末、鵜ノ島南岸沖の溶岩帯に集結したバスは、1月中旬、最も高密度になり、2月中旬にはどこかに移動してしまった。早朝、ちょうど鵜ノ島南岸に氷が張るようになってからのことだ。
次にバスの聖域が出現したのは、河口湖遊園北東に位置する溶岩帯のワンドだった。このワンドの出入口では、3月中旬までシンキングミノーに連続ヒットが続いた。その後バスは、水温の上昇、産卵行動などにより、湖広く分散していくことになる。
ここで注目すべきことは、12月末から1月中旬の最も密度を増した時期ですら、バスの聖域は数10mの距離を転々と移動した点だ。ある時は水深1~1.5mの浅場に群れたかと思うと、ある時は水深6mにある根の頂点(水深2m)に、というぐあいである。広大なオープンウォーターのバスは、真冬でも所在を点々と移し、決して1ヵ所に群れて“冬眠”なんかしてない。
冬の聖域の共通パターンはこうだ
バスは、あらゆるシーズンに聖域を作る。その共通パターンに詳しくなるほど、たやすく釣れるようになる。ところで、冬のバスの共通パターンはどうなのか……最も関心を持たざるを得ないところだろう。もっとも、このパターンというのは各釣り場に固有のサイクルがあるらしく、表面上は必ずしも一致しない。また、かなりの年変動がある点も釣り場の常である。しかし、これからのべる河口湖の一例は、ポイントを解明する1つのカギになるはずだ。冬のバスとその共通パターンを要約すると、次のようになる。
障害物のある水深3~4mの湖底の台地で、付近に日当たりのよい季節風を避ける浅場があり、同時に急深のカケアガリをひかえた部分。しかも、そのような場所が季節風による吹送流(サイト・ビー注:風によって生じる水の流れ)の通過する地点に位置していることだ。
図を見ていただきたい。
サイト・ビー注:鵜ノ島南エリアは富士五湖水上安全条例の保安区域に設定されています。期間や範囲の詳細は河口湖漁業協同組合のウェブサイトをご覧ください
A点は、78年冬、最大の好ポイントになった地点である。東側からのびる溶岩の尾根に沿ってトップウォーターで西進し、尾根の先端と思われるA点西沖のカクレ根からワームで東進した終着点がA点なのである。A点へのバスの集結は11月下旬から始まり、12月25日から1月15日にかけてピークを迎えた。Aポイントの北端は、鵜ノ島が北または北西の風をさえぎり、中央部から南端にかけて季節風、および吹送流が強く通過する。しかも湖底には根があり、根の周辺は水深3~4mで比較的なだらかだ。しかし、2月に入ってA点が結氷するようになると、バスはB点、C点、D点に移動し、3月から5月まで分散して定着したのである。
冬のバスの聖域は、水深、湖底の障害物の有無、季節風による吹送流が3大要素になるのだが、障害物は湖により湖底にのびる尾根であったり、藻や立枯木であったりすることがある。河口湖の場合、特に鵜ノ島周辺では溶岩はポイントになったが、岩にこだわると応用がきかなくなってしまう。
河口湖には、この鵜ノ島周辺以外にも、似たような大場所が5~6ヵ所ある。このポイント図は78年度のデータに基づくもので、あくまでも1つの例である。論より証拠に、79年末現在、約3mの大増水により鵜ノ島周辺は様相が一変し、大幅な変動が見られる。今年の好ポイントはあえて明かさないが、このデータに基づき、夢を追ってほしいと思う。そうでないと、好ポイントにはバスフリーカーが殺到し、ボク自身の楽しみがおびやかされてしまうからにほかならない。
最後に、考慮すべき冬の自然条件にも少しふれておこう。これまでのデータを分析してみると、高気圧圏内で安定した強い季節風が吹く日とか、大雪の直後にはヒット率が急上昇する。また、12月以降、早朝はまったく不調で朝10~11時から午後4時までの時間帯で、月齢15前後の満潮時前後にいい釣りが多い。海とは隔絶した高地の湖で潮汐の影響があるとはふしぎだが、おどろくほど一致している。
掲載はつり人1980年3月号